えんじゅ

神仏習合

ティカをつけた仏像


 ヒンドゥー教徒は、神像にティカと呼ばれる赤い顔料を塗り、神の恩恵があるようにと、それを自分の額に塗る。ネパールでは、仏像にもティカが塗られていた。


シヴァリンガと仏塔


 シヴァ神の男性器と女性器を表すシヴァリンガの上には、小さな仏舎利が建っていた。シヴァ神の性交によって生まれたこの世界に、釈迦が生まれ、そして入滅したということを意味しているのだろうか。

 ヒンドゥー教では、釈迦はヴィシュヌ神の化身と考えられているが、インドでは仏像にティカが塗られているのは見たことがなかった。それどころか、ヒンドゥー教の寺院では仏像さえ見られなかった。ヒンドゥー教徒によって仏教が迫害された歴史があるからなのだろう。コルカタのインド博物館には、顔の削り取られた仏像が何体も展示されていた。
 ネパールでは、ヒンドゥー教と仏教が共存している、と聞いていた。実際に訪れてみると、共存どころか完全な習合を見せていた。かつて日本の神道と仏教がそうであったように。

火炎樹

火炎樹


 仲間とアメリカを横断したとき、アリゾナ北部の沙漠地帯から温暖な南部へ下るに従って、だんだんと花の色が濃くなっていくことに感動した。それ以来、花の色の濃さに目を引かれるようになった。
 汗をダラダラ流しながらある村にたどり着いたら、真っ赤な火炎樹が出迎えてくれた。文字通り樹が燃えているようにビビッドな花びら。万年雪を頂くヒマラヤが聳えるネパールという国は、肌を焦がす南国なのだ。

臆病者のナイフ

護身用のナイフ


 この旅で初めて、護身用のナイフを携行した。いつでも取り出せるようにザックの側面に入れておいた。野宿をしながらの徒歩旅だったから、山賊も怖かったけれど、なにより野犬が怖かった。野犬を脅かせるように、目についた一番大きなものを買った。実際、山道を歩いている途中に一度、3匹の野犬に後をつけられて背筋が凍る思いがした。それでもナイフを抜くことはできなかった。

 聖書に、旅人の臆病な心を諭す一節がある。イエスが十二使徒を宣教に派遣される場面。

 旅には、袋も2枚目の下着も、履物も、杖も持たずに行きなさい。

『マタイの福音書 10章10節』

 宣教の右も左もわからない使徒に対して、身1つで旅に行きなさい、とおっしゃる。この中の「杖」は当時の護身用の武器と考えられている。「武器を持つことは、相手に武器を持たせることになるから、それを持って行ってはいけない。」と僕は解釈している。
 僕は臆病風に吹かれて、ナイフを手放せなかった。だけど僕は、臆病心で隠し持っていたナイフを抜く勇気さえ持てない臆病者だった。

ぎゅっと堅く

笑わない姉妹


 満面の笑みで走り寄ってくる子どもたちもいれば、レンズを向けてもけして口元を緩めない子どもたちもいた。眼光は相手を射抜くように鋭く、何があっても生きるということへの強い意思のようなものさえ感じさせた。
 笑顔を見せない子どもたちの多くは自然環境の厳しい辺境の土地で暮らしていて、見知らぬ旅人に声をかけられると、お姉ちゃんが妹の手をぎゅっと堅く握りしめるのだった。

木の上から

木の上から


 またポカラに向かって一歩一歩歩き始めた。
 バンダの影響でまだ学校が休みの子どもたちが、大きな木に登って遊んでいた。子どもたちは見たこともない外国人が亀のようにゆっくり近づいてくるのを発見すると、大はしゃぎで木の上から飛び降りて走り寄ってきた。
 歩みののろい歩行者は、子どもたちの元気に圧倒されてシャッタースピードの調整もままならず、ブレブレの写真を納めるので精一杯だった。
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