えんじゅ

巣立ち

角帽

 卒業式が終わりにさしかかったころ、卒業生が角帽を宙に放り投げる瞬間が好きだ。
 きっと窮屈さもあっただろう学び舎を卒業する開放感と、古巣を離れて茫洋とした社会に羽ばたいていく心許なさが、宙を舞う帽子に重なる。
 去年も同じ瞬間を写真に撮ったけれど(「卒業後」)、今年はより広角のレンズに取り替えて、帽子が一番高く舞う瞬間にシャッターを押した。少しでもたくさんの帽子を写そうと思った。
 
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ザンビアの正装

チテンゲのシャツ

 昔からスーツとネクタイが苦手だ。窮屈でしかたない。正装となると、どうして男性だけがネクタイをしめることになっているのだろう。ずっと不満に思っているのだけど、誰に文句を言っていいのかよくわからないので、嫌だなぁと思いながら郷に従っている。
 ザンビア人は正装に対する意識がとても高いと思う。男性はきちんとスーツを着て、シャツにはしっかりアイロンをあて、しょっちゅう革靴を磨いている。スーツにキンピカのラメが入っていたり、ちょっとネクタイが短過ぎたり、と日本人から見るとヘンなところもあるけれど。女性もお洒落が大好きで、日曜日にはチテンゲで仕立てたドレスを着て教会に行く。
 僕も学校教員をしている手前、襟付きのシャツと革靴は必須だ。ほとんどの先生は毎日きちんとネクタイをしめている。ザンビアの生活で唯一窮屈なのは、毎日アイロンをかけたシャツを着て、靴を磨かないといけないことだ。ちょっとアイロンがけをサボると、「シャツに皺が入ってるよ」と同僚から指摘され、ちょっと靴磨きをサボると、埃のついた靴に生徒の視線が集まっているのがわかる。教壇に立つ者として、それはプロフェッショナルじゃない。
 
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たよりない相棒

カルバ

 ひょんなことから、子猫を飼うことになった。
 ンドラの町のマサラ・マーケットに、僕がミルクおばさんと呼んでいる仲のいいおばさんがいる。おばさんは乾燥させた小魚や落花生を売る小さな店を営んでいるのだけど、マサラのことなら何でも知っていてどこにでも顔が利く、マーケット全体の主(ぬし)のような人だ。僕はマサラに出かけていくと、いつもミルクおばさんのところに行って世間話をしたり、買い物を手伝ってもらったりする。面倒見が良くて気さくなおばさんなのだ。
 いつかミルクおばさんに、「家でネズミの被害に悩んでいる」と話したことがあった。
 僕の家は畑にほど近いということもあって、ネズミの被害が後を絶たない。ネズミはドアの下のほんの小さな隙間から侵入して、僕が畑で収穫して保管してあるメイズや野菜などを食いあさる。自慢じゃないけれど(いや、自慢だ)、僕の畑のメイズや野菜はうまい。他の畑のように化学肥料も農薬も撒いていないし、収穫物には保存料も使っていないからだ。ネズミは夜中に侵入してきては、新鮮な作物から次々に襲いかかる。食べ終わると、人をあざ笑うかのように黒い糞を残していく。いったい何度、悔しい思いをしたかわからない。
 ミルクおばさんにその話をしたら、ネズミを殺すためのペレット(薬剤)を買いなさい、と言われた。だけどどんなものであれ、家の中に毒を撒くのは気が引けるので、僕は躊躇していた。

 そんなある日マサラに立ち寄ると、ミルクおばさんは「あなたにプレゼントがあるのよ」と言って、子猫を指差した。まだ生後間もないメスの赤ん坊だという。まっすぐ歩くことさえままならず、地面をヨタヨタ歩いている。

 「お母さんと離れてしまったのよ。この子を飼いなさい。数ヶ月すれば、ネズミを捕るようになるわ」

 とおばさんは言った。
 
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収穫から始まる

収穫から始まる

 「Zambian cooking starts with harvesting!」

 夕食に食べるチワワ(カボチャの葉)を収穫している友人に、僕は冗談めかして言った。

 「Ya, Zambian cooking never starts without harvesting!」

 と友人は言った。
 ザンビアの料理は買ってきた野菜を切ることから始まるのではなくて、畑の野菜を収穫することから始まる。
 僕が住んでいる学校の教員住宅では、先生の誰もが土を耕して、野菜を育てている。テレビを持っていない人はいるけれど、鍬を持っていない人はいない。ここで暮らし始めてから、野菜を買うことはほとんどなくなった。自分でもいろんな野菜を育てているし、自分の畑に収穫できそうな野菜がないときには、近所の畑をまわって収穫できそうな野菜をもらってくる。逆に夕食の支度時に、「カタパ(キャッサバの葉)ちょうだい」と、友人が僕の畑に来たりする。
 「収穫から始まる」と、僕は笑いながら言ったけれど、本当はとてもうらやましい。ザンビアで暮らして知った数ある豊かさの中で特に手放したくないと思うのは、畑の野菜を見て夕食の献立を考える、というような豊かさだ。
 

奴隷の木 奴隷の港

奴隷の木

 僕が住んでいる村から車で40分、ンドラの街に入ったところに、大きなムパパの木が立っている。
 ムパパの木は、太い幹をくり抜いて舟にしたり、種をとってネックレスにしたりする、ザンビアでは最もポピュラーな木の1つだ。この古い木のまわりには、イチジクの木がからまるように伸びていて、若々しい葉をひろげている。
 このムパパの木は、「奴隷の木(Slave Tree)」と呼ばれている。かつてスワヒリの商人がこの木の陰で、奴隷の競りを行ったといわれているからだ。当時、ンドラは奴隷交易の中心地だった。
 「奴隷の木」の根元に据え付けられたプレートには、こう書かれている。

This plate has been placed upon this mupapa tree to commemorate the passing of the days when, under its shade, the last of the Swahili traders, who warred upon and enslaved the people of the surrounding country, used to celebrate their victories and share out their spoils.

このムパパの木のプレートは、過ぎ去った日々を今に伝えるためのものである。かつて戦争をしかけ周辺国の人々を奴隷にしたスワヒリの商人が、この木の陰で勝利を祝い、戦利品を分け合った日々を。


 明日から2週間、タンザニアを旅してくる。タンザニアのバガモヨ、そしてザンジバルは、かつてアフリカ各国から連れてこられた奴隷が集積され、積み出された港だった。
 戦争に負けて奴隷になった人々は、アフリカ大陸の民族戦争で兵士として前線に立たされただけでなく、西海岸のセネガルやガーナ、東海岸のタンザニアなどの港から積み出され、南北アメリカ大陸、カリブ海の島々、アラビア半島、インド亜大陸へと労働者として海を渡った。
 今も奴隷集積所の跡が残っているという港を訪れてみたいと思った。タンザニアはアフリカ最高峰のキリマンジャロや野生動物の宝庫といわれるサファリで有名だけれど、今回はどちらにも行かないことにした。
 奴隷が競りにかけられた奴隷の木から、奴隷が大陸を離れた奴隷の港へ。バガモヨとザンジバルでゆっくり時間を過ごしてこようと思う。遠く過ぎ去った日々と、今そこに生きている人々の海べりの暮らしを少しでも感じられたらいいなと思う。
 いってきます。
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