えんじゅ

大根のぬか漬け

カブ

 もうずいぶん前の話だけど、備忘録として書いておこうと思う。
 寒さが厳しかった冬が終わり、ようやく日増しに暖かくなってきた時期のこと。野菜農家の友達と話をしていて、こんなことをこぼしたことがあった。

 「暖かくなってくると、大根が辛くなってくるんよね。ぬか漬けにするとイガイガしちゃって。旬のカブがほしいなぁ」

 すると翌日彼は家にやって来て、穫れたてのカブをたくさん置いていってくれた。「いつも野菜買ってもらってるんで」と、代金も受け取ってくれなかった。なんというカッコいい男!さっそくカブはぬか漬けにした。彼のカブは甘味があってとてもおいしい。

 ところで、そのことをきっかけに、改めて大根とぬか漬けについて調べてみた。するとびっくりするようなことがわかった。
 冬の寒い時期の大根は甘い。冬野菜は寒いと栄養を蓄えて甘味が増す。ぬか漬けにすると、大根の甘味にぬか床の酸味がよく合う。一方、暖かい時期の大根は辛味が強い。そしてこの夏大根の辛味は、実はぬか床の大敵なのだという。
 ぬか床の中にはたくさんの微生物が生きているけれど、その中でもっとも重要な菌は乳酸菌だ。ぬか床の生命線であるこの乳酸菌を、強い殺菌作用を持つ大根の辛味成分が壊してしまうのだそうだ。その結果ぬか床の元気がなくなって、他の野菜を漬けても深みのない味になってしまう。
 辛い夏大根は、大根おろしなどにして食べるといいようだ。特に食中毒が起きやすい夏場には、強い殺菌成分を持つ辛い大根おろしはぴったりなのだ。
 ぬか漬けの名人にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、旬の野菜ならなんでもかんでも漬けてきた僕にとっては衝撃の事実だった。

 辛味の強い夏大根はぬか漬けにしてもあまりおいしくない。そして同時にぬか床にもダメージを与えてしまう。人間の味覚とぬか床の健康との不思議な関係に僕は感心したのだった。
 

Weeding for peace

Weeding for peace

 毎年8月15日の終戦記念日には、自分がどこで何をしていたのかを憶えておきたいと思う。今年の終戦記念日、僕は田んぼで雑草を抜いていた。つい先日まで一緒に田んぼに入っていた仲間のことを思い出しながら。

 8月6日の広島原爆の日には、様々な国から友人たちが援農に来てくれていた。日本がかつて軍隊を送ったマレーシアから、日本に原爆を投下したアメリカから。激しい内戦を繰り返してきたスペイン、そしてアイルランドから。誰からともなく言い始めた、Weeding for peace!というかけ声の下、僕らは日がな1日雑草を抜き続けた。
 
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サヨナラの爪楊枝

サヨナラの爪楊枝

 小さな頃、兄貴と一緒に阪神タイガースの試合をテレビで観戦するのがなによりの楽しみだった。大阪にはサンテレビというテレビ局があって、甲子園で阪神の試合があるときには必ず試合終了まで生中継していた。
 試合の解説者は日によって違ったのだけど、僕が特に好きだったのは福本豊さんだった。僕らは尊敬と親しみを込めて「ふくもっさん」と呼んでいた。現役時代、通算1065盗塁(当時の世界記録)という偉業を成し遂げた「世界の盗塁王」ふくもっさんは、解説者としても数々の伝説を残している。

 「盗塁の秘訣は何ですか?」と実況に尋ねられたふくもっさんはひと言。

 「まず塁に出ることやな」

 「福本さん、今のプレーどうですか?」と実況に尋ねられたふくもっさんはひと言。
 
 「あっ、ごめん、見てへんかった」

 「赤星は最初からおっつけてるように見えましたね〜」と実況に同意を求められたふくもっさんはひと言。

 「・・・ん?オレに聞いとるん?」

 お茶の間で一緒にテレビを見ているおじさんのような、ふくもっさんの解説。野球解説者の常識を覆す数々の伝説の中でも僕が一番好きなのは、「たこ焼き伝説」だ。

 得点が入らず0続きのスコアボードを見て、ふくもっさんはひと言。

 「たこ焼きみたいやな」

 そしてその後久々に1点が入ったとき、

 「たこ焼きに爪楊枝が付いたな」

 それ以来、投手戦で0続きのスコアボードは「たこ焼き」と呼ばれるようになったという。

 僕は大阪の実家に帰ったら、必ずたこ焼きを食べる。そのときいつも、まず右端下のたこ焼きから食べる。そしてその場所にすっと爪楊枝を添えて手を合わせ、今日も阪神のサヨナラ勝ちを祈るのだ。
 

ナイト・ダイビング

9階の部屋の窓

 僕が住んでいたところでは、週に2、3度停電があった。夜中に突然プツッと電気が落ちて真っ暗になることが多かった。
 真っ暗になると、みんなちょっと手持ち無沙汰になるのか、そぞろ家の外に出てくる。静かな暗闇の中で、友人の話し声や笑い声がよく聞こえてきた。
 僕は停電になると庭に小さな椅子を持ち出した。停電時の真っ暗な夜空には、無数の星がまさに降るように瞬いていたのだ。
 星に心を奪われていると、隣のカトンゴが同じように外に出てきた。

 「ヒロ、何してるんだ?」

 「空が星の海みたいだろ。ナイト・ダイビングだ」

 そう言うとカトンゴは笑った。

 「ワハハ、ザンビアには海はないけど星はあるからなぁ」

 「日本には海はあるけど星はこんなに見えないよ」

 「そうか、じゃあオレもダイブするか」

 そう言って彼は自分が座る椅子を家から持ち出してきた。


 日本に帰ってきて数日間、東京のホテルに泊まった。9階の部屋の窓から都会の夜景を眺めていたら、停電の夜のことを思い出した。
 真っ暗闇の中でしびれるくらい眩しかった星空のこと。夜気に混じったマンゴーの匂いのこと、空を見上げて話す友人の声のこと。


 どれだけ多くの国に出かけても、地球を何周しようと、私たちは世界の広さをそれだけでは感じ得ない。が、誰かと出会い、その人間を好きになったとき、風景は、はじめて広がりと深さを持ってくる。

星野道夫『長い旅の途上』より

 

Good bye Zambia

バーロウ

 この記事が、ザンビアでの最後の記事になる。
 1つの区切りになるので、2年間のザンビア生活でどれくらいの記事を書いてきたかを数えてみた。「Hello Zambia」という最初の記事を書いてから、ザンビアで書いた記事は174本あった。2年間を通して、少なくとも5日間に1本のペースで書いてきたことになる。
 書くことが好きでブログを始めてからもう10年近くになるけれど、こんなにハイ・ペースで更新をしたのははじめてのことだった。それだけザンビアで過ごした日々は、発見と驚きに満ちていた。
 だけど、書きたかったことを全部書けたかというと、そうではなかった。書きたかったけれど書けなかった記事が20本くらい残ってしまった。クワイヤとの日々のこと、タンザニアへの旅行のこと、ザンビアの伝統食のこと・・・もっと深く知りたいことも書きたいこともたくさんあった。
 だけど、これだけは言える気がする。写真や文章の稚拙さはさておき、書いた記事には、自分が書きたかったものを書くことができたかな、と。

 僕はアフリカに住む黒人の人々の明るさを書きたかった。
 インターネットが普及して、日本では地球の裏側の情報まで手に入る。アフリカで何が起きているか、ニュースサイトを見れば大きな出来事は知ることができる。だけどニュースでは、貧困、飢餓、内戦、政治腐敗、差別、エイズやマラリアなど、アフリカの暗い側面が取り上げられることが多いように思う。
 アフリカのふつうの黒人がどんな日常生活を送っているか。どんな人が住んでいて、どんなことを話し、どんな顔で笑っているか。どんなものを食べ、どんな歌を歌い、どんな踊りを踊っているか。2年前にザンビアに来る前には、僕はほとんど何も知らなかった。
 だから僕は、ザンビアの人々の明るさを知りたかったし、それを書きたかった。ニュースでは届かない、自分が出会った人々のこと、自分の目で見て自分の耳で聞いたことだけを書こうと思った。
 僕がザンビアで出会った人々は明るくて、人懐こくて、ユーモアがあった。力強く、鮮やかだった。いつもそれを書くことが楽しくて仕方なかった。

 土地も人も生き方も自分にとって遠かったアフリカ大陸の、ザンビアの人々から、僕はたしかな手触りのあるものを与えてもらった。一緒にキャッサバを掘って、マンゴーの木に登って。


 今、お世話になった方々の顔が次々と心に浮かびます。言葉にならない万感の思いを胸に、ザンビアを発ちます。
 ザンビアでの生活を応援してくれた日本の友達と家族に、異国の人間を家族のように受け入れてくれたザンビアの恩師と友達に、そして旅立った母に、感謝の気持ちでいっぱいです。
 2年間ありがとうございました。

2014年1月9日 鷲野浩之
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